花びらの行方

 高さ2メートルほどの書架が立ち並ぶ店内には、コーヒーとビスケットの香ばしい匂いが充満している。飲食可能なカウンター席と読書スペースを隔てるように鎮座するひと際背の高い棚には、北方の国発のベストセラーシリーズの文庫本、砂漠の国の童話集、父母教の外典や、遠い異国の聖典まで、大小さまざまな本がジャンルなど関係なしとばかりにぎっしりと詰められていた。

 シラ・イルシノが営む古書カフェ『忘れじの言の葉』には、店の向かいにあるポリアンサパークを散策するついでに来店する客が時折訪ねてきて、名物のドリップコーヒーをテイクアウトしていく。店主と客の短いやりとりを聞きながら、カウンターの末端の席で若干身を縮こまらせるようにしているのは、ステーキ屋に向かったはずのルドヴィックだった。ソーサーから白地に青い蔦の花が描かれたチョコレートカップを取り上げ、険しい顔で傾けるその様からは、昼下がりのおやつ時間といった気楽さは感じられず、ともすれば場末の酒場で火酒でも引っかけているようにしか見えない。

 客足が途切れたところでシラはルドヴィックの前までやってくると、洗い立てのカップを拭きながら、お待ちかねといった様子で話を再開した。

「で、居ても立ってもいられなくなって、ここまで戻って来ちゃったのかい」

「まあ、いい散歩でしたよ。……じゃなくて、別にしなくてもいいでしょう、あれの話はもう」

「今更何を澄ましたふりして。君が自分から話を始めたんじゃないか」

 あきれたように視線を天へと投げてみせるシラに、ムッとしたルドヴィックはすぐさま抗議の声を上げた。

「俺は好きで話したんじゃない。シラさんがしつこく聞くから仕方なく説明しただけであって」

「だって気になるだろう? 深刻な顔をして入ってきたから心配して声を掛けてみれば、開口一番『口説かれた』と来られてしまっては」

 そう言われてしまうと言葉に窮する。確かに、出だしの言葉が悪かったかもしれない。良くも悪くも他人の好奇心をそそるには十分すぎた。しかし、あの出来事を他にどう表現すれば良かったのかなど、皆目見当もつかない。

 フリアンの突拍子もない言動で居たたまれなくなり、感情のまま公園を立ち去ったルドヴィックは、当初は宣言通りにステーキ屋を目指していた。しかし、歩けども心のざわつきは一向に収まる気配を知らず、何も考えないようにと必死になればなるほど、足は立ち止まることを忘れたかのように動き続けた。

 観光客でにぎわう繁華街の中ほどにあるステーキ屋の前を通り過ぎて、昼間から出来上がっている酒酔い客の笑い声が絶えない商店街、いまや常時解放されている勝利門広場の陸橋下、休日で閑散としているオフィス街と公共施設通り、狭い路地いっぱいに子供たちの声が響く集合住宅街……。それらを風のように通り過ぎた末にたどり着いたのは、かれこれ1時間ほど前に立ち去ったはずのポリアンサパークに面する、東ふれあい通りだった。

 自動車と人々の往来の向こう、いやに輝いて見える花と緑の公園をしばし呆然と眺めた後、ルドヴィックは目のあたりを手で覆い、情けなく震える声で「俺は何をやっているんだ」と独り言つしかなかった。それが、ルドヴィックがシラの元を訪ねる直前の話だった。

 冷めかけたホットチョコレートをにらみつけながら、感情任せに怒鳴ってあの場から逃げ出してしまった自分のみっともなさ、落ち着きを求めていつもの場所に舞い戻ってしまった意気地のなさ、気心知れた店主に根掘り葉掘りある種の惚気を吐かされるという理不尽な現在に思いを巡らせた。なぜこうなったのか。そうだ、もとはと言えばあいつが悪いのだ。あんな馬鹿げたことを口走ったあいつが……。

 怒りに似た感情は、もう思い出したくもない、だが忘れるにはあまりにも新しすぎる記憶を容易く呼び起こした。春の柔らかな日差しの中、薄紅の花びらを手に微笑むフリアンの、なんと甘美なほほ笑み。

『貴方みたいだ』

 静謐なコンサートホールの空気を震わすセロの音色を思わせる低音が、ルドヴィックの脳裏に反響した。

『とても、美しい』

 頭の中でフリアンあいつの笑顔と言葉がリフレインすると同時に頭に血が上り、喉の奥から絞られるように唸り声が這い上がってくる。ルドヴィックはかぶりを振り、意識を現実に無理やり引き戻した。

「本当にこれ以上は勘弁こうむります。この話は終わりだ。あとはもう黙って過ごさせてくださいよ、他に行くあては無いんですから」

「そんなことないだろう。あのデザイナーさんのところは?」

「だめだ、デラノは今忙しいので。用もないのに邪魔しに行ったら針の筵どころじゃない」

「なるほどな。まして惚気話ひとつが差し入れときたら……」

 繰り返し頷きながら忍び笑いを漏らすシラに、溜め息に次いで思わず舌打ちまで飛び出してしまった。他人事だからそんなに気楽でいられるのだ。気の許せる間柄であっても、ここまで不躾な振る舞いをしても良いことにはならないだろうが、事が事である。今だけは許されたっていいだろうと、ルドヴィックは一層鼻根のしわを深めるのだった。

「笑ってないで、チョコおかわり」

 これでは好物の味も分かったものではない。


 再びの来客でシラがその場を離れた。ルドヴィックはようやく戻ってきた平穏――それも長くはもたないだろうが――に一息つくと、熱々のホットチョコレートを口に運ぶ。控えめな甘さの後からコクと苦みが追ってきて舌の上に心地よい余韻を残し、鼻腔にカカオとミルクの芳醇な香りが広がる。先代店主のころから変わらないこの味が、ルドヴィックは大好きだった。

 そうして味覚に意識を集中させようと試みても、頭の中ではいつの間にかフリアンの言葉の意味ばかり考えてしまう。

「美しい」とは何か。いったい俺のどこが「美しい」のか。

 ルドヴィックは人前で突然口説かれたことそのものを恥じたり、フリアンが取った軽率な言動に怒りを覚えたが、実際のところ、激昂の理由はそれだけではなかった。己を形容するにはまったくもって相応しくない言葉の受け止め方が分からず、どうしようもなく恐れたのだ。それこそ、あの言葉を美術品や風光明媚な景勝地に向けたならわかる。だが、そうではないのだ。一体なぜ、どうして。

 大通りに掛かる横断歩道の信号待ちの間、休日の歓楽街はどこを見ても人であふれかえっているのに、自分の周りにだけは大人1人分の余裕があった。あの疎外感に、ルドヴィックはどこか安心したのを思い出す。そう、あれだ。腫物や汚らわしい物、近寄りがたい物として扱われるあの距離こそが、自分を取り巻く世界の常なるところだった――はずだ。

 しかし、その均衡はある日突然崩れて、懐あたりに何者かがちょこまかと潜り込んでくるようになり、それはそのうち住み着いて離れなくなっていた。そして、自分自身もその状況に順応してしまったのだ。うっとうしくて突き放したくなることも多々あるが、温かく穏やかで、聡明で強かで、何よりも儚く、愛おしい気配がいつまでもそばにあり続けてくれるのなら、自分の命を差し出すことさえいとわない。そう思えるほどに。

 しかし、まさか花びらと巨漢を並べ立てて「美しい」などとのたまうようになろうとは。

 無意識に歯を食いしばりすぎたせいかこめかみが鈍く痛み、ルドヴィックはついに頭を抱えた。だめだ、馬鹿げている。惚れた腫れたの好ましさだけでは、今日の出来後は到底フォローしきれない。花びら野郎の言葉の意味がまったく分からない。

 巡りすぎた思考は、しまいには明後日の方向に転がりだした。なるほど、つまりフリアンあれは未知だ。おそらく人類が未だ知り得ない外界、宇宙とか深海とか鏡の世界とかからやってきた魔法生物に違いない。人畜無害そうな見た目で人のそばに這い寄ってきて、柔和な雰囲気と美辞麗句で人心を懐柔して、人類を骨抜きにして家畜化とかそんなことをするつもりなのだ。ああ、なんということだ、俺の手には負えない強大な怪物に目をつけられてしまったのか。その恐るべき正体に気が付かず、のうのうと懐に迎え入れてしまったのは間違いなく俺の落ち度だ。いや待て、俺は一体何を考えているんだ? フリアンは人だ。間違いなく人だ。なのに俺はなんてことを考えているんだ。本当の馬鹿は一体誰なんだ……。

 いよいよファンタジックな領域にまで現実逃避していると、少しの笑いを含んだ明るい声が上から降ってきた。

「また考え込んでる」

「……シラさん、面白がってませんか」

「悪いけど、正直すごく面白い」

 言葉とは裏腹に一切悪びれる様子もなく破顔する店主に、これ見よがしに盛大なため息をついてやったものの、一息に込めてやった恨めしい思いはあっけなく受け流された。

「君が頭を抱えることがあるとはね。モーリスプリングさんの歴史授業だって楽しそうに受けてたのに」

「学問と情緒を一緒くたにしないでください。それにしたって頭抱えたくもなりますよ。だって意味が分からんでしょう。あれの、その……」

「美しいって?」

 単語を聞いただけで寒気に襲われ、体中に鳥肌が立つ。思わず自らを抱きしめるような姿勢を取りうなだれてしまったルドヴィックに、シラは何のことはないとでも言うように語りかけた。

「彼が絶対に嘘をつかないというのは紛れもない事実だろう」

「そうですね。事実を言わないことはありますが」

「それは置いといて、君に対しては、なおのこと誠実であろうとするんじゃないか」

「まあ、そう、でしょう……か?」

「告白は彼からだったんだろう」

「ああ、はい……」

「なら何も疑う余地はない。彼の言う『美しい』ってのはそのままの意味さ」

 その目に不信の色を隠さないルドヴィックへ、シラはなだめるように言い聞かせた。

「彼にとって、君は紛れもなく美しいんだよ。君がそう思わなくても、彼にとってはそうなんだ。それだけのことさ」

「そこまで言うなら、じゃあ聞きますけど」

 ルドヴィックは居住まいを正すと、シラの目を見据えて率直な問いを投げかけた。

「シラさんにはその感覚がわかるんですか? つまり、俺に美を感じますか?」

「いや、まったくわからんね」

「でしょう!?」

 思った通りの返答に食い気味で反応を返すルドヴィックに、シラは苦い笑みを浮かべた。

「そりゃフリアン君の感覚は私にはわからないよ。しかし、仮に私が君を美しいと認めたとして、それが君の疑心を晴らすことは無いだろう。違うかい?」

 ルドヴィックはまたも言葉に窮した。まったくもってそのとおりだからだ。むしろ、シラが美しさを肯定するような返事をしたなら、自分は益々気味悪がったに違いない。自分はシラの返答に何を期待していたのだろうか。とどのつまり、違和感や居心地の悪さを肯定されたかっただけだろう。己の浅ましさに恥じ入り、黙って目をそばめるしかなかった。

 そんなルドヴィックの気まずく多感な内心をおもんばかり、シラはいっそう穏やかなトーンで解決の糸口を示唆してやった。

「いいかい、ルドヴィック。君が何を言われたかはさして問題じゃない。どう受け止めるかが重要なんだよ」

 その時、木製のドアベルがカランと揺れて来客を知らせた。

「いらっしゃいま……」

 入口に視線を向けたシラは一瞬だけ動きを止めたかと思えば、突然カウンターに背を向け、壁に手を付けて忍び笑いなどし始めたのだ。その様子を怪訝に思ったルドヴィックが何事かと振り返ってみれば、満面の笑みを浮かべたフリアンが、店内に一歩踏み入れた姿勢のまま硬直していた。

 目を合わせてしまった二人が驚愕と困惑入り混じる感嘆の声を上げたタイミングは、これまた驚くほどにピタリと一致したのだった。

(終)

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