白に紅捧ぐ春
白と薄紅の小さな花々が咲きこぼれる木立は、春の到来と命の萌芽を願う人々の祈りの結晶なのかもしれない。
ポリアンサパークの一角には十数本のアーモンドの木が植えられていて、この季節には人々が花見に訪れる。家族や友人と、はたまた一人静かに。春風にそよぐ薄桃色の小梢を見上げる花見客たちは、みな一様に穏やかな表情を浮かべていた。
そこから少しばかり離れたところに、和やかな場には似つかわしくない掛け声を上げながら右往左往する青年、フリアン・カレスティアがいた。風に乗って舞い落ちる花びらを自分の手で取ってやると息巻きながら、かれこれ10分ほど格闘を続けている。しかし、彼が小さな勝利をその手につかむ瞬間は終ぞ訪れそうにもない。まるで風と花びらに遊ばれているとしか思えないほど、その骨ばった小さな手は空ばかりつかまされ続けているのだ。
必死に腕を伸ばそうとするあまり、つんのめって片足バランス立ちになるのは当たり前。突然花びらが目の前に現れ、驚きのあまりその場で華麗にターン。不規則な軌道をしっかりと見定めて放った渾身の両手挟み込みは、むしろ空気の流れを乱して獲物を逃がすだけの結果に終わった。
そんなことを何度も繰り返した末、いよいよ打つ手なしと見るや否や、彼はついに腕を振り回しながらでたらめに飛び跳ねだしたのだった。黄色いチューリップの刺繍を施されたヨーク風シャツの余った布が、彼が跳ねるたびに空気をはらんでふわりと広がった。
歴史に残るほどへたくそな雨ごいの舞の実例を挙げるとしたら、まさにこれだろう。すっかり意固地になってしまった相棒のひとり舞台を数歩後ろで眺めながら、ルドヴィック・ドゥリオルグはそんな思いを巡らせていた。その指先でもてあそんでいるのは、目の前の舞台の幕を上げてしまった原因――フリアンの目と鼻の先でいともたやすく取って見せた花びらだ。
「なあんで! ぜんっぜん取れないんですけど!」
フリアンは息を切らし、うなだれながら手に膝をついた。見かねたルドヴィックはため息交じりに声をかける。
「そんな暴れなくても取れるだろう。花びらの1枚や100枚」
「まさかっ、どうやって……とっ!」
そこへ一陣の風が吹き抜ける。へろへろになりながら、なおも花びらを追いかけようとする最愛をしり目に、ルドヴィックはそばに舞い落ちてきた花びらを片手でさっと握りこんでみせた。その様子を視界に捉えたフリアンは、驚きの声をあげながら足をもつれさせ、柔らかな草の上に倒れこんだのだった。
手足を大の字に広げて仰向けになったまま、薄紅と白とが舞う花曇りを呆然と眺める男の隣に、ルドヴィックは静かに腰を下ろした。
「こんな草っぱらで派手に転ばないでくれよな。草汁は落としにくいんだからよ」
「今は何も考えたくありません」
「じゃあ次からは考えてくれ」
「善処します」
呼吸が整ってきたころ、フリアンは額の汗を拭いながら上体を起こし、大きなため息をつきながら背中を丸めて胡坐をかいた。ルドヴィックが汚れを払ってやろうと手を伸ばしかけたクリーム色の後見頃には、芝の細かい切れ端と、フリアンが先ほどまで必死に追いかけまわしていた物が一枚、ぴたりとくっ付いていた。
「おい、よかったな。取れてるぞ」
「何がです?」
ルドヴィックはフリアンの背中からひとひらの薄紅をそっと摘み上げると、キョトンとしている相棒の眼前に差し出した。しばしそれを見つめたフリアンは、意地悪な大男の言わんとすることに合点がいくと、まったく面白くない冗談を聞いたとでも言いたげに顔をしかめた。
「あのですね、ルドヴィックさん。こういうのは風に舞っているものを自分の手でつかまえてこそ! 大きな意義があるんですよ」
そう言いながら、フリアンは何かをぐっとつかみ取るように左の拳を握り、腕を軽く挙げてみせた。なぜか自信に満ちた表情で。その意義とやらを1ミリ程さえ果たせそうもなかったにも関わらず、気持ちだけは一丁前とは恐れ入る。その滑稽さを果たして指摘してやるべきか否か――。呆れるあまり一瞬視界が遠のくのを感じたドヴィックだったが、手元の3枚の花びらに視線を向けると、「なるほどな」と頷いた。
「そうか。じゃあ、コレはいらないってこったな」
フリアンがあっけにとられて声も出せないうちに、手のひらでゆらゆらと転がしていたそれらに軽く息を吹きかけると、折よく通りがかった少し強めの風に乗ってひらりと飛んでいく。口を開けたままどこか名残惜しそうに彼方を目で追う相棒を、ルドヴィックは方眉をあげて見下ろした。
「そんなしょぼくれるなよ。自分で取ってない物はいらないってことだろ」
「いらないとは言って……ううん? でも確かにそういう風なことを言ったのか……えー、いや、でも……」
顎に手を当ててうつむき、しきりに何かを口ごもるフリアンの頭の上に、先ほどまでの必死な様子をからかうかのように花びらが舞い降りてきたのは、一体何者のいたずらなのだろうか。「追いかけるのをやめた途端にこれだ」と、ルドヴィックは思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「まったく。何なんだろうな、お前ってやつは」
「なんで笑うんですか、こっちは本気でやってるんですからね」
「馬鹿にしてるんじゃねぇって。それより頭だ、お前の頭」
「頭ぁ!? えっ、なんですか、やっぱり馬鹿にしてませんか!?」
「勘違いするな。いいから、頭」
「なに頭って……」
促されるままに髪の毛を軽く払うと、乳白に淡い紅が滲むひとかけらがはらりと零れ落ちる。とっさに構えた手のひらの上に、それは音もなく見事におさまった。驚きに嘆息しているフリアンに、ルドヴィックはニヤリと口角を上げた。
「それなら自分で取った内に入るだろ」
「そうかも! ……いや、なんかやっぱり思ってたのと違う」
「意地張ってないで取ったことにしておけ。追いかけっこは一生勝てねぇってもうわかってるだろ」
容赦なく図星を突かれたフリアンは力なく肩を落とし、渋々現実を受け止めた。ルドヴィックの言うとおり、あのまま花びらを追いかけ続けたところで、もっと派手に転ぶか無様を晒すかして、子供たちに冷たい視線を向けられる未来しか訪れることはなかっただろうから。
盛大なため息とともにうなだれた先には、自分の手のひらと、そこに変わらず留まっている一枚の花びらがあった。かすかな風に揺れるひとひらを人差し指の先で撫でてみれば、伝わってくるのは冷たくてややしっとりとした天鵞絨のような感触。落とさないように注意深く摘まみ上げ、今度は様々な角度から観察する。何の気なしに薄曇りの空にかざしてみれば、薄桃色のそれが柔らかな光にさえ白く輝いたように見えて、何かを思い出したかのように息をのみ、目を見開いた。
フリアンは振り向きざまにルドヴィックとの距離を縮めると、相手の頬に花びらをずいと近づける。おとなしく花びらを観察していたはずの相棒が突然取った行動に戸惑うしかない大男は、のけ反りながら「なんだよ」と訝しげに眉をひそめた。
怪訝なまなざしにも一切ひるまず、フリアンは目じりを下げてはにかむと、意味深に囁く。
「貴方みたいだ」
「何が」
「花びらが」
完全に不意を打たれたルドヴィックは反射的に大声をあげてしまったが、そばにいた数人の花見客が何事かと振り返ったのに気が付き、慌てて口をつぐむ。常日頃からよくわからないことばかり口走る相棒だが、今回は飛び切りかも知れない。気を強く持たねば……そう構えなおそうとした矢先だった。
「とても、美しい」
待っていたのはまさかの追い打ちだ。それも想像をはるかに超える程の威力を伴う……。ルドヴィックは一瞬、思考と共に鼓動さえ止まってしまったかのような錯覚に見舞われたが、頭の中で反響する「美しい」という言葉の輪郭を捉えなおすと、途端、体中の血が猛然と巡り出すのを感じた。
「馬鹿じゃねぇの!?」
人目をはばかることさえ忘れて勢い良く立ち上がった大男の顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。心の内を激しくかき乱すものは恥ずかしさなのか、怒りなのか、あるいはそのどちらでもない何かか。彼自身その正体を判然とさせられず、跳ね回る心臓の音さえ不愉快で仕方ない。
相手の激しい動揺を知ってか知らずか、芝生の上に座り込んだまま相棒を見上げるフリアンは、相も変わらず能天気にほほ笑むだけだ。それがルドヴィックをなおのこと苛立たせた。
「正気かてめぇ。なんだ、からかってんのか? ああ?」
唸るような声の威圧にも臆することなく、小さな気障男はにっこりと微笑んで見せた。
「正気ですし本気ですよ。ぼくが嘘をつくとでも?」
「嘘はつかんでも人に散々馬鹿を見せてんじゃ世話ねぇだろうが! いっそ嘘つき相手の方がマシだってんだよこの馬鹿!」
すっかり取り乱しきった大男を見上げながら、フリアンは唇を尖らせて肩をすくめてみせるだけだ。いよいよ何もかもが面白くないと舌打ちをすると、ルドヴィックは大股で歩き出した。
「どこへ行くんですか?」
「肉食いに」
「じゃあ、ぼくはまだここでゆっくりしてますね」
「勝手にしてろ花びら野郎」
吐き捨てるような返事を繰り返し、肩を怒らせながら数歩進んだと思いきや、ルドヴィックは突然勢いよく振り返る。そして、フリアンを指さして念を押すように厳しい口調で言い放った。
「5時までには帰れよ。絶対に迎えには来ないからな」
それだけ言い残し、今度こそ振り返らずに去っていく。フリアンはやはり暢気なまま、背後のどよめきを他人事のように受け流しつつ、遠くなりゆく背中に「了解しました」と呼びかけながら見送った。
場の空気が落ち着きを取り戻すまでに、そう時間はかからなかった。風に揺れる梢のざわめきに耳を傾けながら、いざこざの間ずっと摘まんでいた花びらを再び手のひらに置きなおすと、フリアンは頬を緩めてそれを見つめる。あれほどの剣幕になりながらも、あの怒りんぼは先に帰宅してこちらを待ち構えようとしている事実がどこかおかしくて、どうしようもない愛おしさで胸がいっぱいだった。
霞のような雲の隙間から日の光が射して、萌黄色の草、白や水色などの様々な小花を輝かせる。温もりに満ちた光の中で、フリアンの意識は昨年の9月までさかのぼっていった。二人が出会った場所と同じ、あの会館で行われたパーティーの日に。
「あの時も思ったんだよ。きれいだなって」
誰にも聞こえないくらい小さな声で独り言つ。あの日ルドヴィックの手を引いたのは、「一番の親友と踊ってみたい」という、ただそれだけの理由だった。まさか思慕の念を抱かれていようなどとは想像すら及ばないで。
いつの間にか握りこんでいた手の中の儚いかけらの感触が、大きくて筋張ったあの手のひらの、滑らかなそれとどこか重なる。手を取り踊ったあのひと時が鮮明に蘇るようだ。
転びかけて飛び込んだ胸の頼もしさ。見上げた先には、慈悲深いワインレッドの瞳。
「君の瞳を見た瞬間、時間が止まったんだから。嘘じゃないし、からかってもないんだ」
音も光も何もかも、周りにあるものすべてがどこか遠くに追いやられてしまうほどの衝撃がまたも去来し、胸の奥が熱くなって震えるのを感じる。
あの時抱いた想いについては、今も言葉にできないままでいる。「プロポーズの時に伝えられていたのなら良かったのに」と、今更ながら後悔していた。ならば今日こそはと、自分が感じたままを伝えてみたのだが、結果はご覧のあり様だ。愛情を言葉にするのは照れ臭く、適切な言葉を選ぶのは難しい。それに、ルドヴィックにしても誉め言葉を素直に受け取るのが未だに難しいのならば、込み入ったことは言わずにいたほうがお互いのためなのかもしれないとさえ思う。
「でもさ、ケンカみたいになっても、何も言えないで終わるよりはずっと良いと、ぼくは思うんだ」
好ましさを実直に伝え続けることには大きな意義があると、フリアンは確信していた。愛しい人の面影を閉じ込めたゆるい握り拳にそっと口づける。それから顔を上げ、細く長く息を吐いた。火照ったほほをなでるそよ風の心地よさに促され、うっとりとほほ笑んでまぶたを閉じると、ゆっくりと指を開いていく。
いつか全部言えたらいい。終わりが来る前にはきっと。たとえその時になってさえ、君が素直じゃなくても。
霞のような雲が少しずつ晴れていく淡い空色の彼方に、小鳥のさえずりと花びらは高く舞い上がっていった。声にはならない願いと共に。
(終)