約束

 あれは数年前のこと。旅行先での出来事だ。  そこを訪れたのは日程の最終日。白い漆喰壁の家々と青い丸屋根で統一された街並みが美しいその島は、周辺諸島の遺跡と共にそのすべてが歴史遺産に認定されている。  観光シーズンの真っただ中には毎日のようにツアーやイベントが催され、それを目当てに訪れる観光客でごった返し、身動きさえ難しくなるほど混雑するらしいが、最盛期をふた月ほど過ぎて来訪したので、ほかの観光客はほとんどいなかった。  島内は大人がやっとすれ違えるほどの細道が迷路のように入り組んでいた。無駄にでかいこの体では誰かとすれ違うにも壁に背中を張り付けなければならず、正直なことを言えば気まずくて仕方ない。いっそ壁を登って屋根伝いに歩いてやろうかと思ったが、実行に移す勇気を持つことはできなかった。  一方、生まれ故郷につながっているからという理由で海を好むアイツは、「先に展望エリアについたほうが勝ち」とか言いながら、俺の数歩先を足早に進んでいく。落ち着きをもって職務にあたる普段の姿しか知らない者がこのはしゃぎよう目にしたら驚くに違いないと、心中で独り言つ。  急かすアイツを見失わないよう追いかけながら坂道と階段をひたすら登り続け、ようやくたどり着いた島の頂上からは、周辺海域の無人島群と小さな観光船の影、どこまでも続く青い水平線が一望できた。  人影がまばらなその場所で、俺とアイツは海を眺めながら、道中見かけた土産屋の開店時間まで他愛もない会話で暇を潰すことにした。  数分ほど話していたところ、どんな話題でそうなったのか記憶は定かではないが、何かがよほどおかしかったのだろうアイツは弾けるように笑い始めてしまった。海から吹き上げるやや冷たい潮風を浴びた薄褐色の横顔の鼻先と頬は薄く色づき、暗いエバーグリーンの髪は軽やかになびいていた。 フリアン・カレスティアの笑顔を横から描いたイラスト  だが見惚れている場合ではない。転落防止用とするには――少なくとも俺にとっては――心許ない低い白壁に手をかけたまま、腹がよじれんばかりに笑っているのだ。そのまま身を乗り出して落ちてしまうのではないかと気が気でなく、すぐさまアイツのスボンの腰辺りをひっつかんで、いいから落ち着けと呼びかけた。……今思い出しても肝が冷える。  少し自重したアイツはその場にいったんしゃがみ込み、手の甲に額を押し当てながら呼吸を整えていた。まったく人騒がせな奴。しばらくすると落ち着いたのか、「ああ、おかしい」と一息つきながら立ち上がった。 「もう帰る日なのか。名残惜しいな」 「こっちは余韻どころじゃねぇよ。勝手に馬鹿笑いして勝手に落ち着きやがって」  しゃがみこんで壁にもたれかかり、頬杖をつきながら悪態を吐く。できれば帰りたくないのは俺も同じだが、散々人の心を振り回しておいて、まあ暢気なものだという反感が抑えきれない。馬鹿笑いの余韻を少し赤くなった目じりに残し、「心配かけてごめんよ」などと今一つ真剣みに欠けた表情を浮かべるアイツには、生返事だけしてやった。  風が再び吹き抜けていく。焦燥で火照った頭を冷ましてくれるような心地よさを感じ、ただ静かに目を閉じる。  ほんの一分にも満たない沈黙が長く感じた。波の音と海鳥の鳴き声がどこか遠く感じられるような、不思議な心地だった。  不意にアイツが俺に呼びかけた。うっすらと目を開けて顔を向けると、アイツは、こちらを見て微笑んでいた。  一生を共にして欲しいと俺に告げた、あの時と同じように。 フリアン・カレスティアがルドヴィックに向けて微笑んだ瞬間のイラスト 「また来ようね、ここに」  冬というにはまだいくばくかの強さが残る陽光に照らされ、その髪と瞳はエメラルドのように、いや、アイツのすべてがあまりにも輝いていた。  俺は、なんて返事をしたのだったか……。あとのことはほとんど思い出せない。ああ、いつもそうだ。アイツにとびきりの笑顔を向けられると、他のことが全部吹っ飛んでしまう。そうして残されるのは、脳裏に焼き付いて離れない光そのもののような情景だけなのだ。  そんなことを思い出したのは、ソファでくつろぎながら何の気なしに眺めていた旅行雑誌に、あの白い街並みと青い水平線の写真が載っていたからだ。今しがた耽っていた物思いをなぞるように写真を親指で撫でつつ、胸元の温もりに視線を落とすと、そこにはアイツ……リアがいる。俺に体を預けて寝息を立てていて、まったく起きる気配はない。  数年前にリアがあの島へ旅行すると決めた日は、俺の方が眠りこけている側だったはずだ。脱力しきった相棒の寝顔を眺めながら、まったく因果なものだと鼻で笑ってしまった。  旅行という非日常で年甲斐もなく浮足立ち、些細なことで馬鹿笑いして、人のことなどお構いなしにあちこちはしゃぎまわって、こちらに心配ばかりかける。  そんなありのままのリアが俺の隣にいる。俺だけの隣に。……こんな奇跡が他にあるだろうか? 「また行くか、ここに」  そう呟きながら長いまつ毛にかかった柔らかな前髪をそっとよけてやると、リアはかすかに微笑んでくれた。 (終)
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