ガーベラ

 冬も終わりに差し掛かったある日のこと。  今季最後になるであろう強烈な寒波は、我々の頭上遥か彼方をどこまでも覆い尽くしているらしい。空は快晴で日差しが燦々と照りつけているにもかかわらず、時折吹き抜ける北風は、防寒具で身を固めた私から容赦なく体温を奪っていく。  痩せた脚にかかる体重は嫌に重たいが、私は惰性にも似た確固たる意志でもって歩みを進めた。向かう先はコンビニと電機屋である。  自動車の往来が激しい通りの路側帯をおっかなびっくり歩む。家を出て10分弱。疲弊しながらコンビニの店内に踏み入れた私は、ネットプリント対応複合機の前に立った。 慣れない手つきで1つ目の番号を入力するが、登録されていないというエラーが返ってきた。あれ、ともう一度入力したが結果は同じだった。  仕方なく次の番号に切り替えると、こちらは上手くいった。どうやら番号を間違えてメモしてしまったらしい。また明日来なければならないのか……。少しだけ落ち込みつつも、紙の種類やらサイズやらを選択していく。あれこれ戸惑いながらもやっと硬貨を投入し、私は念願のネットプリントに成功した。  続いて2つ目の番号を入力し、こちらも同じように設定して印刷ボタンをタッチする。出力を待っていると、視界の端にアタッシュケースを携えた男性が入り込んできた。雑誌コーナーに目をやりながら、何を手に取るでもなくただ時間をつぶしている風である。もしかすると複合機に用があるのかもしれないと思ったが、さしてこちらを気にしている様子は無かったので、私も彼を気にしないようにしながら、3つ目の印刷物の番号を打ち込んだ。  2分ほど後、私がおつりと印刷物を取り出して複合機から離れると、男性は入れ替わるように機械の前に立ち、せわしなくタッチパネルを操作し始めた。  ああ、しまった。やっぱり順番を待っていたのか。そう予感した時点で順番を譲るべきだった……。申し訳なく思いながら耳当てをつけ直し出入口へと向かう。ちらと見やったカップラーメンの陳列棚に、辛辛魚は置いていないようだった。  電機屋に目当ての物は無かった。これはどうもネット注文するほかなさそうなので、さっさと諦めて店を後にした。  ふらふらと家路を歩む。足取りは相変わらず重たい。ため息が一つ漏れそうになった時、数メートル先の花屋の店先に老齢のご夫人が立ち止まっていて、どうやら店の中をのぞき込んでいるらしいことに気づいた。彼女はすぐに立ち去ったが、私はなんとなくその人が何を見ていたのかが気になったので、立ち替わるようにその場に立って店の敷地内へと視線を向けてみた。  なんたって季節は冬である。屋外の展示スペースに鮮やかな大輪の花などは無く、なんだか小さい紫色の花とか、蕾のままのシクラメンとか、ちょっと褪せたような薄緑色の細長い葉っぱのようなのとか、球根のままのヒヤシンスとかが並んでいる。  だが、それらの向こうにある自動ドア越しの店内は、暖かい色の照明とたくさんの色の薔薇に彩られていて、妙に明るく感じられた。  それを見た私はどうしたことか、突然「花を買おう」と思い立ち、理由を考える前に洒落た狭い門を潜っていた。  自動ドアを通り抜けて店内に足を踏み入れると、外気よりもずっと湿度を帯びた暖かい空気に全身を包まれた。胡蝶蘭、色とりどりのバラ、虹色のカーネーション……それらの香りが混ざりあい、私の鼻腔を満たす。  この店を訪ねるのは初めてではないが、前回の来店はもう十数年前のことになるだろう。たしか、母の日にカーネーションを買ったのが最後だと思う。しかし、私の母はずいぶんものぐさで、毎年の切り花よりも、手入れの要らないドライフラワーの置物一つあれば良いと分かってからは、必然的に足が遠のいていたのだった。  そんなだから、当時の店内がどのような状況だったかさえもはや思い出せない。ただ、なんとなく懐かしい気持ちがしたので、そう変わっていないのであろうことは確かだ。  落ち着かない気分で壁一面を埋め尽くすように陳列された花々を物色していると、一輪のガーベラが目に留まった。花弁の先端は黄色く、萌黄色の中心に向かうにつれて濃い橙色へと移り変わっていく。そのグラデーションはまるで鮮やかな夕映え空のようだった。  狭い店内をひと通り巡って、またそのガーベラの前にやってきた私に、先に注文されたのであろうブーケを作っていた店員が手を止めて声をかけてくれた。私はこわごわと「1輪だけでも大丈夫ですか」と確認した。なにせ自分用に、しかもたった1輪だけの切り花を買うなんて初めてのことだから、何も勝手がわからないのだ。不安げな私に、愛想の良い店員は「もちろん大丈夫です」と笑顔で答えた。安堵した私は件のガーベラを指さして、「これを1輪ください」と頼んだ。  育ちすぎた街路樹が並ぶ歩道をゆっくり歩く。慣れないことをしたせいだろうか、頭が締め付けられるように鈍く痛み、重みを増しているような錯覚に陥る。車の流れが途切れたところを見計らって信号機のない横断歩道を渡り終えれば、家はもう目前だ。  そう思ったとたん、ずんと足が重たくなった。  ああ、疲れた。  ただ歩いて物を取りに、それから探しに行っただけで、大したこともしていないのに。一時間も動いていないはずなのに、どうしてこんなに。  おのずと視線が下がっていく。私の横を通り過ぎた自転車の後姿、塗装が剥げてさびた看板の脚、アスファルトの止まれの表示……。  すると、力なく握っていた一輪ブーケの、あのガーベラと目が合った。  目が合った、というのは正確ではない。植物に眼球など存在しないのだから。ただ、堂々たる花冠をなんだか「顔」のようであると認識したことがある人は少なくないだろうと、私は勝手に思っているので、あえて目が合った、と表現してみる。  頭の重さに任せて細長い包みの中をぼんやりのぞき込んでいると、ガーベラがかさりと揺れた。 「まあ、そんなに下を向くのはおよしなさい」  花屋のロゴ入り包装紙の中、セロハンカバーの内側で窮屈そうに花弁をすぼませたガーベラが、あっけらかんとそう言った……ような気がした。  彼女あるいは彼は、きっと私ではなくその向こう側、蒼穹のはるか向こう側を見据えているのだろう。根もなく、葉もなく、種を残すこともなく。ただ萎れ散りゆく時を待つだけになってもなお、しゃんと上を向いたまま、まんじりともせず。  トボトボと歩みを進めながら、私はどうにか顔を上げた。  北風が止んだ。鼻と頬を冷たくしながらガーベラを胸に抱き歩む私に、柔らかな日差しが降り注ぐ。  その暖かさはまるで、ひと足早く訪れた春のようだった。 (おしまい)
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